私の人格形成に影響を与えた書物と思索5
小林 誠(こばやし・まこと)
著述業・哲学研究者
私の人格形成に影響を与えた書物と思索
〔10〕 小説『ドリアン・グレイの肖像』や戯曲『サロメ』、童話「幸福な王子」などで知られるイギリスの作家オスカー・ワイルド(1854~1900年)は、「虚言の衰退」という芸術論の論考の中で、「自然が芸術を真似〔まね〕る。」と述べた。
この言葉は、少なからず逆説的に思われるかもしれない。普通は、人は「芸術が自然を真似る」と考えると言えよう。
例えば、すばらしい風景があれば、その風景をスケッチしたり、その風景を油絵に描くことがあるであろう。あるいは、写真に撮ることもあるかもしれない。そして、スケッチや油絵や写真は風景を真似たものである。この場合、風景は自然であり、スケッチや油絵や写真は芸術であるから、「芸術が自然を真似る」ということになる。
これに対して、ワイルドはその言葉を逆転させて、「自然が芸術を真似る」と言った。
私は、ワイルドの「自然が芸術を真似る」という主張は卓見であると考えている。この主張は、先に記した、「教養の持つ最大の意義」は「私たちの見ている世界を変えてしまう」ことにある、という見解と深く関係する。この主張は、「教養の持つ最大の意義」は「私たちの見ている世界を変えてしまう」ことにある、という見解の一つの例としてみなすことができると思われる。
「自然が芸術を真似る」という主張〔意見〕を説明するために、ワイルドは主に絵画を例に挙げているが、私は、ここでは、三木露風(1887~1964年)の第二詩集『廃園』(1909年刊)に収められている「去りゆく五月の詩」を例に採りたいと思う。この詩は、彼の第四詩集『白き手の猟人〔かりゅうど〕』(1913年刊)所収の「現身〔うつせみ〕」と並んで、露風の全業績を代表する作品であると言ってよい。
去りゆく五月の詩
われは見る。
廃園の奥、
折〔おり〕ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、
静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。
空の色やはらかに青みわたり
夢深き樹〔き〕には啼〔な〕く、空〔むな〕しき鳥。
あゝいま、園〔その〕のうち
「追憶〔おもひで〕」は頭〔かうべ〕を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは
哀〔かな〕しきにほひのあとを過ぎて
甘きこころをゆすりゆすり
はやもわが楽しき住家〔すみか〕の
屋〔をく〕を出〔い〕でゆく。
去りてゆく五月。
われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匐〔は〕へるちひさき虫のひかり
うち群〔む〕るる蜜蜂〔みつばち〕のものうき唄
その光り、その唄の黄金色〔こがねいろ〕なし
日に咽〔むせ〕び夢みるなか……
あゝ、そが中に、去りゆく
美しき五月よ。
またもわが廃園の奥、
苔〔こけ〕古〔ふ〕れる池水〔いけみづ〕の上、
その上に散り落つる鬱紺〔うこん〕の花、
わびしげに鬱金の花、沈黙の層をつくり
日にうかびただよふほとり―
色青くきらめける蜻蛉〔せいれい〕ひとつ、
その瞳〔ひとみ〕、ひたとただひたと瞻視〔みつ〕む。
ああ去りゆく五月よ、
われは見る汝〔いまし〕のうしろかげを。
今ははや色青き蜻蛉の瞳。
鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺〔すいへん〕よりして―
上記の露風の詩は、伊藤信吉著『現代詩の鑑賞(上)』(新潮文庫、初版1952年、改訂新版1968年)から引用したものである。詩というのは、一回読めばそれでよいというものではなく、三回、四回読んでいるうちに味わいが出て来て、その詩の真価が感じられて来ることが多い。したがって、最低三、四回は読むことが大切である。
同書において、伊藤信吉氏が上に掲げた詩の鑑賞文を中心とした解説文を記しているので、その前半の部分を以下に引用しておきたいと思う。
これはおそらく『廃園』を代表する作品と言ってよい。一篇の主題は「去りゆく優しき五月のうしろかげを」というところにあるが、人の思いをまどわすような季節の触感と、そこに醸〔かも〕されるやわらかな情緒を、言葉のニュアンスとそのリズムの諧調〔かいちょう〕によって、うつくしい織物のように織りなしたのである。ひとつの情緒は次の情緒をさそい、それはまたあたらしい情緒を呼んで、その微妙なかさなりのうえに第一節から第二節へと、ゆるやかなリズムにつれてその織物は織られてゆく。そこに織られた一篇の抒情が「去りゆく五月」なのである。……(中略)……しかしこの詩の感銘をいっそう美しくするのは、言葉の優美なもちい方であり、その配置のたくみさである。もの倦〔う〕くやわらかな五月の気温や、眠りをさそうようなあたためられた情感、あかるい光のなかをかすかに揺れる風など、そういう季節の温感をつつんでこの詩の言葉は綴られている。
したがってこの詩は五月の終りころの季節感と、そこに醸される情緒の表現を主眼にしたことが知られるのであって、作品の主題というべきものは、ある不確定な形でただよっている。言葉と音楽との分ちがたい流れに、そのふたつのものの機能が、たがいに溶けあうところに美の意識がただよい、情緒の美が織りなされている。そして廃園の奥にこもる五月という季節のいとなみは、作者の胸にひろがる美の意識にほかならなかった。
「去りゆく五月の詩」には、第一節に「去りゆく優しき五月のうしろかげを。」という言葉があり、最終節〔第六節〕には「『時』はゆく、真昼の水辺〔すいへん〕よりして―」という言葉があるが、私は、これらの言葉には、露風のすぐれた詩才を感じることができる。
なお、第五節に現れる「蜻蛉〔せいれい〕」とはトンボのことである。「蜻蛉」は「とんぼ」とも読むが、ここではその語感を考えて「せいれい」と読ませている。
また、第四節と第六節に現れる「汝〔いまし〕」とは「あなた」のことで、擬人法であり、「去りゆく五月」を指している。「汝」は「なんじ」と読むことが多いが、ここでは同じ意味で「いまし」と読ませている。
第四節を見ると、
去りてゆく五月。
われは見る、汝〔いまし〕のうしろかげを。
地を匐〔は〕へるちひさき虫のひかり
うち群〔む〕るる蜜蜂〔みつばち〕のものうき唄
その光り、その唄の黄金色〔こがねいろ〕なし
とある。
白昼の日光にひかる、地を匐〔は〕へるちひさき虫。
巣のまわりでブーン、ブーンと鈍い音をたてて群がり飛ぶ蜜蜂。
その光り、その唄が黄金色〔こがねいろ〕をなしている。
伊藤信吉氏も述べているように、これらは廃園の奥にこもる五月という季節のいとなみであり、作者の胸にひろがる美の意識にほかならない。
「五月の終わり頃」と言っても、それに特別の感情など全く持たなかった人も少なくなかったかもしれない。
しかし、この詩を読むことにより、五月の終わり頃〔去りゆく優しき五月のうしろかげ〕における・廃園の奥にこもる季節のいとなみについての「知識」を有することによって、そしてその「知識」により「意味づけ」されることによって、これまでなんとなく見て来た五月の終わり頃の季節が今までとは違ったとても魅力のあるものに見えてくることがあるであろう。
これが、ワイルドの言う「自然が芸術を真似る」ということなのである。
次回の掲載は、2025年3月21日の予定です。
略歴
小林 誠(こばやし・まこと)
1958年 | 埼玉県に生まれる。 |
慶應義塾大学経済学部卒 | |
現 在 | 著述業 哲学研究者 日本哲学会、日本科学哲学会、日本法哲学会、会員 (日本哲学会については、元日本哲学会会長の沢田允茂先生が拙著『価値判断の構造』について、「博士の学位論文に十分になり得る。」と言ってくださり、同学会に入会したものである。) |
専 攻 | 哲学(哲学的価値論、存在論、意味論) |
著 書 | 『価値判断の構造』(恒星社厚生閣、1998年) (価値についての理論的問題の双璧とも言える、「善い」という概念の解明と価値言明の真理性の問題を主たるテーマとし、基本的に自然主義の立場に立つ自分の解答を提示した、メタ倫理学に関する体系的モノグラフィー) この『価値判断の構造』は、人事院の作成する平成30年の国家公務員試験〔大卒・総合職〕(旧国家公務員上級試験)の試験問題に採用された。 『「存在」という概念の解明 ― 新しい存在論原理の展開』(北樹出版、2021年) (「『存在』という概念の解明」〔「存在する」という言葉によって、私たちは一体何を言おうとしているのか、の解明〕という、古代ギリシャ以来二千数百年間未解決であり続けた難問の解決を試みた著書) |
無断複写・転写を禁じます
たとえ一部分であっても、本文章の内容の転載や口頭発表等は、ご遠慮ください。どうぞよろしくお願い申し上げます。