私の人格形成に影響を与えた書物と思索 3
小林 誠(こばやし・まこと)
著述業・哲学研究者
私の人格形成に影響を与えた書物と思索
〔5〕 ここで、「数学を学ぶことの意義」について、私の思うところを記しておきたいと思う。
私たちは、一般に、中学一年生で(χを未知数とする)一元一次方程式を学び、高校生になってから対数関数や三角関数、数列、微分、積分などについて学ぶ。
このことについて、次のように言う人も少なくない。
「中学一年で一元一次方程式を学んで、高校に入ってから対数関数や三角関数、数列、微分、積分などについて勉強しても、社会に出てから自分はそれらを使ったことなど一度もない。だから、そのようなものを勉強することは無意味である。そんな暇があったら、もっと社会に出てすぐ役立つような実用的なことを勉強すべきだ。」
このような主張である。
私は、このような主張は非常に浅薄な見解であると思う。
私たちが中学や高校で数学を学ぶのは、一元一次方程式や対数関数、三角関数、数列、微分、積分に関する知識(例えば、公式や定理など)を覚えるためだけではない。一元一次方程式や対数関数、三角関数、数列、微分、積分を題材〔材料〕にして私たちの思考能力〔思考力〕をより向上させることが、より重要な目的であると考えられる。
一元一次方程式は、中学一年生レヴェルの生徒の思考力をより向上させるのに、適当な題材〔教材=材料〕である。対数関数や三角関数、数列は、高校一年生や二年生レヴェルの生徒の思考力をより向上させるのに、適当な題材〔教材=材料〕である。微分や積分は、高校二年生や三年生レヴェルの生徒の思考力をより向上させるのに、適当な題材〔教材=材料〕である。
例えば、中学一年生が一元一次方程式の意味が十分に理解できて、かつ、それ〔一元一次方程式〕を用いて数学の問題が自在に解けるようになったならば、彼は、以前に比べて、格段に ― すなわち、一元一次方程式の意味が理解できて、それを用いて数学の問題が自在に解けるような水準にまで ― 思考力のレヴェルが向上したのである。
また、高校生の生徒が対数関数や三角関数、数列、微分、積分の意味が十分に理解できて、かつ、それら〔対数関数や三角関数、数列、微分、積分〕を用いて数学の問題が自在に解けるようになったならば、彼は、以前と比べて、格段に ― すなわち、対数関数や三角関数、数列、微分、積分の意味が理解できて、それらを用いて数学の問題が自在に解けるような水準にまで ― 思考力のレヴェルが向上したのである。
そして、そこで身につけた思考力は、基本的には消えることはないのである。
私は、数学は、生徒たち(あるいは、私たち)の思考力を向上させる題材〔教材=材料〕として、きわめて有効なものであると考えている。おそらく、他のどの教科よりも、数学は、生徒たち(あるいは私たち)の思考力を向上させるのに有効であろうと考えられる。すなわち、数学は、中学や高校で学ぶすべての教科のうちで、思考力の向上の手段として最も効果的なものであると思われる。もし、私たちが中学や高校で「数学」を学ぶことがなかったとしたら、すなわち中学や高校の教科に「数学」がなかったとしたら、私たちの「思考力」はどんなに貧しく悲惨なものになることであろうと思われる。
思考力の非常に重要な要素に「分析力」があるが、数学が「分析力」の養成にも役立つということを、確率の問題を例にして述べておきたいと思う。
次のような確率の問題を考えてみたい。
「均質に作られた普通のサイコロ1個を3回投げたとき、出た目の最大値が5である確率を求めよ。」
この問題は難問ではないが、特別やさしいという程の問題でもない。
この問題の解答のポイント〔要点〕は、「出た目の最大値が5である」ということがどういうことであるか、正確に分析できるか、ということにある。
もし、サイコロを3回投げて1回でも6の目が出たとしたら、出た目の最大値は6になってしまい、5にはならない。したがって、6の目は出てはならない。すなわち、3回とも出た目は5以下でなければならない。
しかし、3回とも出た目が5以下ならばそれでいい、というわけではない。
例えば、サイコロを3回投げたとき、出た目が、「4,1,3」となったならば、3回とも出た目が5以下ではあるが、出た目の最大値は4になってしまい、出た目の最大値が5にはならない。
したがって、出た目の最大値が5になるためには、少なくとも1回は5の目が出なくてはならない。すなわち、サイコロを3回投げたとき、3回とも出た目が4以下になってはならないということである。
以上のことから、「出た目の最大値が5である」ということは、次のように分析されることがわかる。

すなわち、「出た目の最大値が5である」とは、「『3回とも出た目は5以下であり』、かつ、『3回とも出た目が4以下である、ということはない』」と分析される。
(これを「目の出方の集合」を用いて言えば、「出た目の最大値が5である、目の出方の集合」は、「目の出方が3回とも5以下である、目の出方の集合」から「目の出方が3回とも4以下である、目の出方の集合」を除いた「集合」(図の斜線部分)ということになる。「目の出方が3回とも4以下である、目の出方の集合」は、「目の出方が3回とも5以下である、目の出方の集合」の真部分集合である。)
以上の説明から、「出た目の最大値が5である確率」は、「3回とも出た目が5以下である確率」から「3回とも出た目が4以下である確率」を引いた値となることがわかる。
3回とも出た目が5以下である確率は、
5/6 × 5/6 × 5/6 = 125/216
3回とも出た目が4以下である確率は、
4/6 × 4/6 × 4/6 = 64/216 (=8/27)
よって、出た目の最大値が5である確率は、
125/216 ー 64/216 = 61/216 (≒28.2%) である。
このように、数学の学習は、「分析力」の養成にも役立ち得るのである。
「学校での勉強の価値は、学校で学んだ知識をすべて忘れた後に残ったものである。」という趣旨のことを言った人がいる。
私は、この言葉が全面的に正しいとは思わないが、かなりの程度「数学」には当てはまるのではないかと考えている。
私がこの言葉が全面的に正しいとは思わないのは、例えば、世界史や日本史の場合には、学校で学んだ知識をすべて忘れてしまっては、ほとんど(あるいは、あまり)意味がないと思われるためである。
けれども「数学」の場合には、例えば三角関数において、正弦定理や第一余弦定理、第二余弦定理などの学校で学んだ数学的知識を忘れてしまっても、それらの知識を十分に理解し自在に活用できるようになったことによって得られた「思考力の向上」は、あまり失われることがないと思う。その意味において、先程の言葉は、相当程度「数学」の学習には当てはまると思われるのである。
さらに、一般に、数学は理科系の教科であり、国語は文科系の教科であって、数学の能力は国語の能力とほとんど関係がないと考えられている向きがあるように思われる。
しかし、私は、実際は、数学の能力は国語(特に、論説文などの読解)の能力に密接に関係していると考えている。
論説文は、ほとんどの場合、多くの文によって構成される文章によって、ある思想〔論旨〕を表している。この場合、文章中のある一つの文が文章全体においてどのような内容的位置づけを有するか、また、その文はすぐ前の文やすぐ後の文と内容的にどのような関係に立っているか、といったことを適確に捉えるためには、数学によって養成される、論理的能力を初めとする思考能力を必要とする、と言えると思う。
(また、逆に、国語の能力も、例えば、数学(特に、解析学)におけるε-δ論法の意味を正しく理解するのに必要である、と言える。)
このように、数学の能力と国語の能力は、― 一見無関係に見えながら ― ちょうど水脈が互いに貫流し合う地下水の如く、実は密接に関係していると考えられるのである。(なお、ここで一言付言するならば、特に大学以降の数学は「数の美学」とも言うべき性格をも有していると言える。したがって、美的センスも重要であると考えられる、ということを述べておきたいと思う。)
〔6〕 以上、私が小学五年生になった時に父に買ってもらった小学校高学年用の「算数」の参考書の話に端を発して、私の考える「数学を学ぶことの意義」について述べて来た。
ここで、私は、さらに、「教養の持つ最大の意義」について、論じてみたいと思う。
「教養」については、「あの人は、とても教養豊かである。」とか、「教養があるということは、よいことである。」とか言われる反面、「大学では、教養科目などは廃止して、専門科目だけを教えればいい。教養科目などいわば飾りみたいなもので実用的でない。大学で教養科目を廃止した分、専門科目をみっちり教えることが、将来にとって大切だ。」と言われることもある。
「教養」に関する評価についての私の立場をまず最初に述べておくと、私は、「教養」は「人生において非常に大切な〔重要な〕もの」である、と考えている。
前述した大学における教養科目に反対する主張との関連で言うならば、大学から「教養(教養科目)」を除去してしまうと、大学は単なる職業訓練校になってしまう恐れがあると思う。私は、職業訓練校自体について、それが悪いものであるとか、無意味なものであるとか言うつもりは、全くない。職業訓練校は職業訓練校で、それ自体、立派な意義があると思う。ただ、私は、大学を職業訓練校に同化することに対して、疑問を有するのである。
私が読んだある本には、アメリカのハーヴァード大学では、学部の課程においては、専門科目を教えず、教養科目だけが教えられると記されていた。専門科目は大学院に入ってから教えられるとのことであった。ハーヴァード大学では「教養(教養科目)」が非常に重要視されていることがわかる。
さて、先程記した「教養の持つ最大の意義」についてであるが、私は、 ― 「教養の持つ最大の意義」について、自分と同様の考えを持っている人がいるかどうかは知らないが ― 、「教養の持つ最大の意義」は「私たちの見ている世界を変えてしまう」ことにある、と考えている。教養が「私たちの見ている世界を変えてしまう」というのは、虚偽でもなければ、比喩でさえない。文字どおりの意味において、「教養」によって「私たちの見ている世界が変わってしまう」のである。
このように述べると、「それでは、教養のない人が見ると、テーブルの上にリンゴが1個置いてあるのが見えるが、教養のある人が見ると、テーブルの上に、リンゴでなくてメロンが1個置いてあるのが見えるのか。」と質問あるいは反論する人がいるかもしれない。たしかに、リンゴがメロンに変わることはないのだが、「教養」によって「私たちの見ている世界が変わってしまう」というのは、けっして間違いではないのである。
私は、このことを、以下において、「英文読解」の例と「掛け時計」の例を用いて説明したいと思う。
次回の掲載は、2025年1月17日の予定です。
略歴
小林 誠(こばやし・まこと)
1958年 | 埼玉県に生まれる。 |
慶應義塾大学経済学部卒 | |
現 在 | 著述業 哲学研究者 日本哲学会、日本科学哲学会、日本法哲学会、会員 (日本哲学会については、元日本哲学会会長の沢田允茂先生が拙著『価値判断の構造』について、「博士の学位論文に十分になり得る。」と言ってくださり、同学会に入会したものである。) |
専 攻 | 哲学(哲学的価値論、存在論、意味論) |
著 書 | 『価値判断の構造』(恒星社厚生閣、1998年) (価値についての理論的問題の双璧とも言える、「善い」という概念の解明と価値言明の真理性の問題を主たるテーマとし、基本的に自然主義の立場に立つ自分の解答を提示した、メタ倫理学に関する体系的モノグラフィー) この『価値判断の構造』は、人事院の作成する平成30年の国家公務員試験〔大卒・総合職〕(旧国家公務員上級試験)の試験問題に採用された。 『「存在」という概念の解明 ― 新しい存在論原理の展開』(北樹出版、2021年) (「『存在』という概念の解明」〔「存在する」という言葉によって、私たちは一体何を言おうとしているのか、の解明〕という、古代ギリシャ以来二千数百年間未解決であり続けた難問の解決を試みた著書) |
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