私の人格形成に影響を与えた書物と思索 4
小林 誠(こばやし・まこと)
著述業・哲学研究者
私の人格形成に影響を与えた書物と思索
〔7〕 まず、「英文読解」を例に出してみたい。(「英文読解」と言っても、難しい英文を問題にするつもりはない。易しい英文で十分である。)
今、AとBという二人の人間がいるとする。
Aは英語がきわめて堪能であり、日本人でありながら、日本語と同レヴェルで、英語を読んだり、書いたり、聞いたり、話したりすることができる。
それに対して、Bは、英語が不得意というどころか、アルファベットすらも知らない。したがって、紙に書かれた英文を見ても、どれが「エイ」で、どれが「ビー」で、どれが「スィー」であるかも、わからない。
さて、このようなAとBという二人の人間に、今、同じ英文が印刷されている用紙をそれぞれ1枚ずつ渡すことにする。
この時、AとBは同じものを見ていると言えるであろうか。
たしかに、Aの目の網膜とBの目の網膜には、同じ英文の倒立像が映っているであろう(よく知られているように、目の網膜には、外界の対象の正立像ではなく、対象の倒立像が映る)。
しかし、Aの方は、その英文の内容〔意味〕が十分にわかるのである。一方、Bの方は、その英文の内容〔意味〕については、全く何もわからない。
Aは、例えば “apple” という文字(すなわち、インクの模様)を見れば、それが「リンゴ」のことだということがわかる。 “There is an apple on the table.” という文字(すなわち、インクの模様)を見れば、それが「テーブルの上にリンゴが1個あります。」ということである、ということがわかる。
Aは英語に関する非常に多くの知識(単語の知識、熟語の知識、英文法の知識、文型についての知識、語法についての知識等)を有している。彼は、 “There is an apple on the table.” というインクの模様に、それらの知識によって、意味づけをすることができる。例えば、前述したように、 “apple” というインクの模様については、「リンゴ」という意味づけをすることができる。
Aは、インクの模様に対して、自分の有している英語に関する知識によって「意味づけを行う」ことによって、英文の内容〔意味〕を理解することができるのである。
それに対して、Bは、英語についての知識を全く持っていない(アルファベットすら知らない)ので、インクの模様に対して、何の「意味づけ」も行うことができない。Bにとっては、紙に印刷されたインクの模様は、インクの模様以上のものではない。インクの模様以上のものにはなり得ないのである。当然、英文の内容〔意味〕は全くわからない。
以上のことから、AとBが同じ英文が印刷されている用紙を見ている時、「本質的に、彼らは異なったものを見ている」と言うことができる、と考えられる。すなわち、英語の知識(教養)のあるなしによって、AとBにとって、「見ている世界が変わってしまう」のである。
〔8〕 次に、「掛け時計」を例に出してみたいと思う。
壁に、ごく普通の「掛け時計」が掛かっているとする。その「掛け時計」は円形をしており、白い盤の上に、黒っぽい文字で「1」から「12」までの数字が記されている。また、その「掛け時計」には、短針と長針、それに秒針も付いているとする。
ここで、30歳の普通の〔健常な〕大人と2歳になったばかりの幼児(男の子)を考えてみることにする。
今、その「掛け時計」において、短針が「3」を指しており、長針が「12」を指しているとする。
前述の30歳の大人は、今、時刻が3時(一応、午後3時ということにする)であることがわかる。そして、彼は、現在の時刻が正午すなわち昼の12時を過ぎており、もう少し時間が経つと夕方になるということもわかる。また、彼は、今から長針が1まわりすると、短針は「3」から「4」へと(角度で、30°)移動するということも知っている。さらに、彼は、秒針が1まわりすると、長針は1分(角度で、6°)進むということも知っている。彼は時計を正しく読むことができるから、例えば、短針が「10」と「11」の間にあり、長針が「11」を指していれば、時刻は10時55分であることがわかる。
これに対して、ごく普通の2歳になったばかりの(つい1週間前までは1歳であった)幼児は、どうであろうか。
その幼児は、時計を読むことができないであろう。したがって、短針が「10」と「11」の間にあり、長針が「11」を指していても、時刻が10時55分であることはわからない。
それだけでなく、彼は、そもそも「数字」を知らないであろう。白い盤上に「1」から「12」までの数字が記されていても、彼は「数字」を知らないから、白い盤上に何が書かれているかもわからない。
現在、午後の3時である時、もちろん彼は、今から長針が1まわりすると、短針は「3」から「4」へと(角度で、30°)移動するということも知らないし、秒針が1まわりすると長針は1分(角度で、6°)進むということも知らない。
また、彼は、「インク」という概念も、「模様」という概念も、持っていないかもしれず、それ故、「白い盤上に、インクの模様がある」という認識さえも持っていないかもしれない。
そうすると、彼は「掛け時計」を見ても〔「掛け時計」に目を向けても〕、一体何を見ているのか、ということになる。ほとんど何も見ていないのではないか、すなわちほとんど何の認識も得ていないのではないか、と思われるのである。
(因みに、先程の英語を全く知らなかったBは、英語の知識による意味づけはできなかったので、英文の意味は全くわからなかった。しかし、彼は、「インク」という概念や「模様」という概念は持っていたので、英文が印刷された用紙に対して、「インク」という概念と「模様」という概念の知識によって「意味づけを行う」ことによって、「用紙にインクの模様が印刷されている」ということはわかったのである。)
30歳の普通の〔健常な〕大人は、「掛け時計」に対して、「数字」の知識や「時計」に関する知識によって「意味づけを行う」ことによって、現在の時刻等を知ることができる。
それに対して、2歳になったばかりの幼児は、「数字」の知識も「時計」に関する知識も全く持っていないので、「掛け時計」に対して、何の「意味づけ」も行うことができず、現在の時刻等について何もわからない。
以上のことから、30歳の普通の〔健常な〕大人と2歳になったばかりの幼児は、「掛け時計」を見ている時、「本質的に異なったものを見ている」と言うことができる、と考えられる。すなわち、「数字」の知識と「時計」に関する知識の「ある、なし」によって、彼らにとって、「見ている世界が変わってしまう」のである。
〔9〕 上に述べた、「知識のあるなしで、見ている世界が変わってしまう」ということは、別に「英文読解」や「掛け時計」の例に限ったことではなく、「ほとんど普遍的なもの」であると言える。
例えば、肺のレントゲン写真も、医学についての全くの素人が見れば、「何かこの辺が少し白いような気がする。」という程度のことしかわからないが、医学的知識の豊富な熟練の医師が見れば、そのレントゲン写真から、「これは、肺炎が中程度に進行している。あの薬を使うのは適切ではなく、この薬を患者に使うのがベストである。」といったことを知ることができるのである。
私たちは、一般に、「知識」による「意味づけ」によって、「世界を見ている」のである。
「教養」も「知識」の一種であるから、「教養のあるなし」で、「見ている世界が変わってしまう」と言えるのである。
次回の掲載は、2025年2月20日の予定です。
略歴
小林 誠(こばやし・まこと)
1958年 | 埼玉県に生まれる。 |
慶應義塾大学経済学部卒 | |
現 在 | 著述業 哲学研究者 日本哲学会、日本科学哲学会、日本法哲学会、会員 (日本哲学会については、元日本哲学会会長の沢田允茂先生が拙著『価値判断の構造』について、「博士の学位論文に十分になり得る。」と言ってくださり、同学会に入会したものである。) |
専 攻 | 哲学(哲学的価値論、存在論、意味論) |
著 書 | 『価値判断の構造』(恒星社厚生閣、1998年) (価値についての理論的問題の双璧とも言える、「善い」という概念の解明と価値言明の真理性の問題を主たるテーマとし、基本的に自然主義の立場に立つ自分の解答を提示した、メタ倫理学に関する体系的モノグラフィー) この『価値判断の構造』は、人事院の作成する平成30年の国家公務員試験〔大卒・総合職〕(旧国家公務員上級試験)の試験問題に採用された。 『「存在」という概念の解明 ― 新しい存在論原理の展開』(北樹出版、2021年) (「『存在』という概念の解明」〔「存在する」という言葉によって、私たちは一体何を言おうとしているのか、の解明〕という、古代ギリシャ以来二千数百年間未解決であり続けた難問の解決を試みた著書) |
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